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書店をふらついていたら「旅する力」(新潮社)という本が目に入ってきた。アジアから欧州までの旅をまとめたルポ「深夜特急」で知られるノンフィクション作家・沢木耕太郎氏の長編エッセーだ。「旅とは何か」という命題にひきつけられて購入した。旅という不思議な言葉に敏感になっていたのは、それに飢えていたからかもしれない。
10年前、新卒で入った会社に辞表を出し海外へ出た。給料も悪くなく仕事も順調だったが、将来の“カンバス”に夢が描けないことが、たまらなく嫌だった。今思うとはっきりした目的もない旅だったが、多くを教えられた。
初めて着いた海外の空港。ツアー客が続々とバスに乗り込む傍らで、一人途方に暮れた。頼れる人はいない。自分で行動しない限り何も進まないと悟った。異国での経験や出会いは、自分の基盤となった。
あれから10年。仕事に追われてバックパックは物置に眠っている。冒頭の本で沢木氏は「旅は行き先や期間で決まるものではない。何を学び、何を感じるかだ」というメッセージを伝えていた。09年は、平凡な日常にあぐらをかいている自分にビンタを食らわせる意味で、再び「旅」に出たいと思っている。(伊藤)

普通の人の定義は難しい。が、考え方や行動が想像の域を超えない人とすれば、5日に亡くなった大川栄二氏は普通でなかった。ダイエー副社長等を歴任後、私財を投じ桐生に大川美術館を設立。画家の松本竣介が好きだった私は20代前半、大川館長の下で2年半近く働いたことがある。
典型的なワンマン館長だった。思い込んだら一直線。実績から得た自信ゆえに信念は決して曲げない。「そうやろ君、違うか」?関西訛りの言葉に反論しようものなら、物凄い剣幕で怒鳴られた。が、私も若かった。納得出来ないことに「はい」とは言えず、衝突は日常茶飯事。怒りで鉛筆を折らせたことも1度や2度ではない。やり合った時は本当に頭にきたが、どこか憎めないところもあった。ギロリと睨みつけたかと思うと人懐っこい笑顔を見せる。実に愛すべき、ややこしい人物だ。怒り、笑い、涙した2年半。強烈な生き様を間近に見て、何事かを成し遂げる「厳しさ」と「楽しさ」を学んだ。
訃報を聞き美術館へ。恨みごとの一つも言おうと思ったが、竣介の絵に囲まれた館長の顔は拍子抜けする程穏やかで、その気も失せてしまった。死ぬと人は円くなるのかもしれない。心からご冥福を祈る。(中島)

観光客が訪れるある街なかの食堂で昼食をとっていたら、ドアが開き「こんにちは」の声。振り向くと知人の商店主。後ろに3人続いている。彼は食堂の主人に「お客さんですよ」と伝えて帰って行った。残った3人は「近くて良かったわね」などと満足そう。
あとで商店主に聞くと「ウチで買い物をしてくれた観光客から『近くで食べられる店ない?』とよく聞かれるんです。そんなときはあの店を紹介しているんですよ」という。さらに「もちろん(土産店など)他の店を教えることもあります」。お客さんの要望を聞き、店同士、互いに紹介しあっているそうだ。
国も自治体も観光に力を入れ始めた。大規模業者は海外へ営業に行くのも珍しくないとか。しかし、深まる不況でどこも厳しい。
「ウチだけもうかればいい」の時代は終わり、観光地も「点」から「線」さらに「面」へ拡大して快適な旅を演出してあげる工夫も大切な営業。軒を並べる各商店は「また来てね」の願いを込めて連係し合う。どの観光地でも、お客さんを紹介し合っているんだろうが、初めてその現場を目の当たりし、「お客さんに喜んでもらおう」の意気込みを改めて知った。(南保)

上武大駅伝部が、10月に開かれた東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)予選で好成績を残し、悲願の初出場を決めた。来年1月2、3日の本選では、群馬の大学として初めて箱根路を走ることになる。
先月、同大へ取材に訪れた際には本選へ向けて「空っ風」の中を黙々と走る選手たちの姿があった。コース脇では花田勝彦監督がハンドマイク片手に選手を激励していた。
五輪経験を持つ花形ランナーだった花田監督が同大に来たのは04年。当時は無名校。恩師である瀬古利彦氏から「情熱があればできる」との助言を受けて就任を決めたという。実績のない同大に有望選手は集まらない。花田監督は全国を回り、選手に声をかけていった。就任5年目、監督を信じて練習を積んだ選手たちが大舞台で力を発揮した。
群馬という地の利も最大限に生かした。都内の大学が山間部練習するには合宿が必要だが、同大は日帰りが可能。赤城や榛名などで練習を重ね、培った脚力が箱根への道を切り開いた。監督によると、榛名の雰囲気は箱根に似ていて、モチベーションアップにもつながったという。上毛三山から箱根へ。正月には上武のタスキが群馬に勇気を与えてくれるだろう。(伊藤)

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