歌手 由紀さおり さん

「きらびやかな衣装を身にまとい、「夜明けのスキャット」や「ブルー・ライト・ヨコハマ」などを熱唱する由紀さおりさん=前橋のベイシア文化ホール

【21世紀の歌謡曲を届けたい】

「一人でも多くの皆さまの心に届くよう、精一杯歌わせて頂きます」

 

【20年振りに紅白出場】

「久々の紅白歌合戦出場。また、この大きな舞台に帰ってくることができ心より嬉しく思っています。一人でも多くの皆さまの心に届くよう、精一杯歌わせて頂きます」 92年、童謡メドレー「赤とんぼ」で紅組トリを務めて以来、20年振り13回目の単独出場を決めた。昨年10月に発売した米国ジャズオーケストラ「ピンク・マルティ—ニ」とのコラボレーションアルバム「1969」が米配信ジャズ・チャート1位を獲得し国内だけで40万枚の実績を記録。1年以上【20年振りに紅白出場】経った今も世界中で大ヒットしていることなどが紅白切符に繋がった。通算23回目となる今年の紅白では、米国からの生中継で同オケと共演。歌うのはデビュー曲「夜明けのスキャット」だ。

【楽しくてスリリング】

紅白出場が内定した10月21日の前日、偶然にもピンク・マルティーニとの全国ツアーで郷里を訪れていた。「今日はドキドキで落ち着かないでございますよ。ここは群馬ですがまずはブルー・ライト・ヨコハマから」 舞台に登場するや軽妙なトークで会場を沸かせた。「1969」収録曲を中心に熱唱。澄みきった歌声に美しい日本語、確かな歌唱力に斬新なアレンジ—オケとの息もピッタリで聴衆を大いに魅了した。「マルティーニとの共演は楽しくてスリリング。毎回、歌う曲が分かるのは本番30分前ですから(笑)。いつも準備万端の状態で舞台袖に立っていました」 この真摯な姿勢が群馬を含む22公演、総動員数4万人という大規模ツアーを成功に導いた。

【褒められたことがなかった】

3歳から歌い始め小学時代は「ひばり児童合唱団」に所属。童謡歌手として全国を回る際、母親が必ず同行した。「でも一度も褒められたことがなかった。『平均点はあげられるかな』って言われたくらい。仕事に対して本当に厳しい人でした」
「歌手になる」と決めたのは小学6年の時。学業の傍らNHK歌のお姉さんやアニメの声優を務めたり、CMソングを歌うようになる。69年、「夜明けのスキャット」でデビュー。ミリオンセラーの大ヒットを記録し同年から10年連続で紅白出場を果たす。歌手、女優、司会、バラエティーと多方面で活躍。85年から姉の安田祥子さんと童謡コンサートを開始。姉妹の透き通った歌声とハーモニーは幅広い層から支持を得た。「多い時は年150回の公演をこなした。本当は歌謡曲もやりたかったが両立はとても無理でした」

【今も何だか訳が分からない】

デビュー40周年を迎えた09年、「21世紀の歌謡曲を見つけたい」と再び歌謡曲を歌い始める。そして2年後、由紀さんを再び一躍スターダムに押し上げた「1969」が誕生。きっかけは同オケのリーダー、トーマス・ローダーデイル氏が中古レコード店で「夜明け—」を“ジャケ買い”し、その透明感ある歌声に魅せられたから。「夜明け—」を含め69年に流行した歌謡曲をカバーしたアルバムは世界50カ国以上に配信され大反響を呼ぶ。「点と点がポコポコあって、ある日ツツッて繋がり星座が形作られた感じ。こんなことになるなんてねえ、今も何だか訳が分からない状態です(笑)」

【歌の世界に引き戻される】

43年の歌手人生は華やかに彩られているが、本気で辞めたいと思ったことが2度あったという。1度目はデビュー11〜15年目。紅白に出場できず結婚生活も破たん、公私共に追い詰められていた。2度目は童謡コンサートを精力的に展開していた40歳前後。「歌手以外の人生があったのでは」「母親になりたい」—そんな思いに捕らわれる日々。が、子宮筋腫を患いその夢も断たれる。その後、2度目のパートナーとなる男性と出会うも一緒に暮らすことは叶わなかった。「辞めようとしても、なぜか歌の世界に引き戻される。本当の意味で歌と真正面から向き合ったのは40代後半からです」
童謡という新たなジャンルの確立、21世紀の歌謡曲の創造—深い挫折を乗り越えた後、常に新しいものを求めて挑戦し続けてきた。「1969」にしても発売に至るまで約2年かかったが決して諦めず現在の栄光を掴み取った。突然とも見える再ブレークは実はたゆまぬ努力の積み重ねが生んだ必然だったのだ。

【綺麗な日本語を歌いたい】

「1969」がなぜ、これほど人々の心を捉えたのか—由紀さん自身こう分析する。「日本に限らず今、メロディアスな音楽、呼吸のようなさりげない歌が少ない。日本語が持つ綺麗な旋律と洗練されたオケの響きが良かったんじゃないかしら」 現在、多忙を極めるが目指すべき方向は明確だ。「綺麗な日本語の歌を歌いたい。歌い手は歌詞の裏側に潜む情感や情念をどれだけ豊かに伝えられるかが勝負。私と同世代の人は勿論、若い人たちの心にも響くような『21世紀の歌謡曲』を届けたい」
年末の大舞台で共演するピンク・マルティーニとは来年もツアーを行う。年明け1月30日にはシングルをリリース。3月には生まれ故郷でコンサートを開く。「お世話になった方たちに恩返しをしたい。新生・由紀さおりを見せたいですね」 しなやかに軽やかに—歌姫の快進撃は来年もとまらない。

文:中島 美江子
写真:高山 昌典

【プロフィル】Yuki Saori
48年桐生生まれ。69年「夜明けのスキャット」でデビュー。昨秋に発売された「1969」は、世界50カ国以上で配信されロングセラーを記録。文部科学大臣賞(2012年)や紫綬褒章(同)など数々の賞を受賞。東京在住。

 

〜由紀さんへ10の質問〜

その日その日を積み重ねて日々を生ききる

—桐生の思い出は 

3歳までしかいなかったので、あまり覚えていないのですが…(苦笑)。預けられた家の近所で、絶えず鳴り響いていた機織りのガチャコンガチャコンという音ですね。間借りしていた北川眼科で階段を滑り台にして遊んでいたら叱られたことも、今では良い思い出です。デビュー後、改めて北川眼科を訪ねた時、階段が当時のまま残っていてうれしかったですね。また、桐生といえば八木節ですが、難しくてうまく歌えなかったです。

—座右の銘は

「憂きことの なほこの上に積まれかし 限りある身の 力ためさん」 あらゆる逆境にも、忍耐と高潔な心を持って立ち向かうことを説いている歌です。母がよく困難な出来事に向き合う時、呪文の様に言っていました。真正面にぶつかって自分の出来る限りの努力をする、それでもだめなものは本当にだめなのだからと教えられました。

—最近ハマっているもの

備前焼。コーヒーカップなどを作って楽しんでいます。今は忙しくて制作時間がなかなか取れません。

—長所短所は

自分ではよく分からないですが、知り合いから「決心がついて進むときは、ものすごい力を出す」と言われたので、そこが長所かもしれません。短所は神経質で心配性なところ。予習復習しないとダメな人です。

—最近、感動したことは

9月に紫綬褒章を受章したことです。多くの方々からお祝いの言葉を頂き、改めてこの褒章の重みを噛み締めています。ここに至る道のりは、やはりピンク・マルティーニとのコラボアルバム「1969」があったればこそ。彼らと10月の1カ月間、22公演をクリアし楽しいステージを作れたことも今回の評価に繋がったのだと思います。本当にうれしかったですね。

—尊敬する人は

両親でしょうか。特に母は厳しい人でした。一度も褒められた事がありません。晩年、「何でなの?」という問いに母は「私がいいと褒めればその先、安心して努力しなくなるでしょう」と言われた事は、忘れる事ができません。
あとは、いずみたく先生。我が恩師です。「夜明けのスキャット」で初めての印税をいただいた時、「そのお金はどうするのか?」と聞かれたので、とっさに「貯金します」と答えました。すると、「半分は貯金して残りの半分は自分の音楽にお金を使いなさい。自分に投資しないと音楽がやせるから」と忠告してくれました。先生の言葉を今も実践しています。

—モットーは

その日その日を積み重ねて日々を生ききる。

—習慣は

うがいを欠かさない。

—リフレッシュ法は

睡眠をとること(笑)。

—全国ツアーで愛用したアクセサリーや靴は

靴は5足、イヤリングは4つ=写真=用意していましたが毎回、この中から2パターンを組み合わせて付けていました。

 

取材後記
豊かな歌唱力と絶妙なトーク—10月20日、郷里でのツアーでは歌姫としての存在感だけでなくコメディエンヌとしての才能も如何なく発揮、会場を熱狂の渦に巻き込んだ。「ありがとう」 ステージ後の握手会ではファン一人ひとりに感謝の言葉をかけていく。約1時間、終始笑顔だった。首元には喉を保護するためのスカーフ。プロとしての矜持が伝わってきた。
昨秋からの大ブレークに由紀さん本人はいたってクールだ。浮ついたところが全くない。芸能生活43年。いくつもの修羅場をくぐってきたからこそ、今のブームに飲み込まれず客観的なスタンスを保っていられるのだろう。「人に求められるところで仕事をしなければ意味がない。だから自分がやりたいことをしながら、お客様を喜ばせるにはどうしたら良いのかを常に考えている。忙しさに流されず、これからもじっくりと腰を据えて歌っていきたい」 昨年から今年の大活躍を経て、来年は更にパワーアップした歌声を聞かせてくれるに違いない。