知久平さんと街[4月21日号]

大谷(おおや)石の産地・宇都宮市大谷地区に、採石場跡があります。地下に広がる巨大な空間。ライトアップで幻想的に仕立てられ、イベントや撮影スタジオにも使われます。2年前に見学し、中島飛行機の工場跡でもあったと知りました。
戦闘機「疾風(はやて)」を生産した宇都宮製作所が1945年、空襲を逃れて疎開。戦後の米国調査によると、地区にあった地下工場は計5・8ヘクタール、9千人が働いたといいます。
中島飛行機を一代で成した中島知久平(ちくへい)は17年(大正6年)、33歳で尾島町に飛行機研究所をつくりました。2年後に中島式飛行機を成功させ、軍に納入。軍人から実業家、政治家へ。宰相も視野に入る有力者になり、戦後一時は戦犯容疑までかけられます。
そんな重い印象をぬぐってくれたのが、今月2日に太田市のスバル本工場であった講演です。創業百年を機に、富士重工業から社名を変えた記念の式典にあわせ、近現代史が専門の手島仁さんが話しました。
当時の飛行機製造の水準に危機感を抱き「お役所仕事では非効率」と起業。製作所で暮らし、恩人への感謝を忘れない。「政治は政策が命」と私財で民間研究機関も設立。内陸型重工業都市の礎となった歴史とともに、熱い思い、魅力的な人柄を学びました。
戦後社会で知久平が評価されなかったのは、戦後政治の転換や自己宣伝嫌いなこと、政敵らの自己保身によると、手島さんは説きます。帰途に市内押切町の「旧中島家住宅」を訪れると案内する職員が施主を「知久平さん」と呼びます。街の和菓子店でもスバルの工場でも。街中で思いがつながるようで、うれしくなりました。(朝日新聞社前橋総局長 岡本峰子)