アトリエの香り[12月21日号]

 画家松本竣介の没後70年を記念し、大川美術館(桐生市)にアトリエが再現されています。遺品の棚や机、イーゼル、万年筆、茶色に日焼けした蔵書……。事業を監修した、次男で建築家の松本莞氏が「アトリエの匂い」の記憶を、今月初めまであった企画展の図録に寄せていました。

 絵具や溶剤、ストーブの燃料、ニンニク、パイプ、そしてコーヒーが、混然一体となった匂いのする場。9歳で父を失い、数年後にふと、アトリエからその匂いが消えていることに気付いた時、父の死を実感した、と記します。

 特定の匂いが記憶を呼び覚ます現象を、小説「失われた時を求めて」の一節にちなみ、「プルースト効果」というそうです。五感の中でも嗅覚は、感情に直結すると研究で示されています。多くの人に思い当たりがあるでしょう。

 私の場合、その一つが、コーヒーと紅茶、軽食をつくる喫茶店のキッチンと紫煙の混じった匂い。大学時代、友人に連れて行かれた店が気に入り、その後バイトするようになりました。長続きしなかった他のバイトと異なり卒業まで3年勤めた横浜・元町での情景が、ふいに結びつきます。

 戦後まもなく夭逝した画家は、軍部の美術への干渉を批判する文章を戦中に発表したことで知られますが、家庭と生活を大事にした人でもありました。再現された創作と生活の場から香り立つ雰囲気が、それを示すようです。「綜合工房」の看板を掲げたアトリエは来年6月まで展示され、来年12月まであと3回の企画展が予定されています。

(朝日新聞社前橋総局長 岡本峰子)

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